仕事上必要な他者への理解
どうも、しゅーぴーです。
今日は、どんな仕事をする上でも必要な他者への態度について書こうと思います。
基本的に言うはやすく、行うはかたし
これを理解しないと、指導される方もする方も、つらい目にあってしまうかもしれないということです。指導する方は、その仕事について当然習熟している人であるわけで、自らもかつてそれを学び理解したわけです。一方、指導される方、教えられる方というのは、まだそれができない。理解していない、という状況です。一見、一般的によくありふれた状況かと思うかもしれませんが、これがそうでもないところが実社会のむずかしさではないでしょうか。
なぜ、教わることが難しいのか
無事、教わることができて、仕事も理解できたならそれはよいことでしょう。しかし、うまういかない場合も存在するはずです。そういった場合に考えられることは、
・教える人は、教えるものを理解してはいるが、教え方を理解していない。
ということがあると思います。例えば、その人自身が、そもそも人から仕事を教わったことがなく、独学、独自でそれに習熟した人だったとしたら、その人にとっては仕事を教えることは難しいことかもしれません。これがつまり、仕事を理解してはいるが、仕事の教え方を理解していない、という状況です。ほかにも理由はあると思いますが、仕事を知っているということと、仕事を教えられるということは全く別なことだと考えた方が良いかもしれないということです。なので、仕事ができる人から仕事を教わるよりも、仕事ができない人から仕事を教わる方が、仕事のことを理解できることだって普通に有り得るということです。(そういう意味で個人的には教育用の組織をつくるというのも、理想的にはアリな話しだと思っています。)
なぜ、教えることが難しいのか
というわけで、仕事を教える人に期待されるものというのは、仕事の教え方を知っているという教育的態度であり、言うは易し、行うは難しを知っていることではないでしょうか。個人の能力差があることを誰よりも理解し、その格差に対して敏感な人が適任でしょう。なので、指導対象者が何が分からないのか、どこまで分かっているのかを「問う」必要さえもあるでしょう。指導対象者誰もが上手に質問できるとは限らないということまで想定しなければなりません。そこら辺も指導者は教えてあげる必要があります。たいてい、質問ができないということは、疑問を持てないということが本質的にあることですので、疑問の持ち方を教えるのもひとつの方法かもしれません。相手が何がわかっていないのかが分かっていない状態で教えても、教えたということにはならず、相手の理解状況をひたすら把握しようとする態度が、教える側には要求されるために、教えることは相当難しいことなのではないでしょうか。
まとめ
というのは理想をいうことは簡単ですが、実際にやることはやはり難しいわけです。どの組織においても教育の質が高いはずはなく、まちまちなところもあると思います。それこそ、実際には教え方さえも好みの話しだったりして、とてもむずかしいことだと思います。また、どこかには自分にあう場所があるはずなのも事実で、今の職場にこだわらず色々な会社の話しをみたり聞いたりするのもよいでしょう。