たのしい工学

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だれにでも才能はある

   

どうも、しゅーぴーです。

talent

社会が生きにくく感じる理由として、協調と同調が同一視されていることってあると思いませんか?なんというか、協調する雰囲気を持とうとするあまりに、それが同調圧力になってしまっているというか。協調性を育む教育の弊害というやつですね。

しかし、学校教育を終えて世の中に出てしまえば、協調とばかり言ってられない場面も出てくるわけで、そこでは成果が求められたりするわけです。成果を出すためには、独自の方法や何らかのオリジナリティが必要となったりすることもあります。

そうなると、協調教育の敬虔な信者だった人達は困ってしまうわけです。「ん?なんか今まで通りじゃダメみたいだ。」と悩む人もあるでしょう。そこで必要なものが、逆の感性の「どこにも属せない感覚」だったりします。これは言い換えれば才能というものです。

この「どこにも属せない感覚」を発揮することには少し勇気がいるかも知れません。しかし、必要な分だけなら誰でもできるはずです。それは適正量ですから、あまり恐れなくてもよいのかも知れません。

世の中にはこの「どこにも属せない感覚」に素直に生きてきた人だっているんです。じつはそういう人たちが世間的には才能があると言われている人の大部分だったりします。

学校にひとりも友人がいなかったという爆笑問題の大田光に大槻ケンヂ、そして「高校三年間で五分しかしゃべらなかった」というお笑い芸人のほっしゃん。どんなギリギリの状況でも「YES」と言い続けるオノ・ヨーコに、「人の言うことは聞くな」と主張する五味太郎。「頭のなかを麻痺させるのがイヤだった」というよしもとばななに、「外界を見ろ」と叫ぶ富野由悠季。小学校のクリスマス会を「自主参加でいいですよね」と言って堂々とサボっていた井上雄彦に、十五歳にして女性とつき合う可能性を100%あきらめ、徹底的に自分の興味ある研究に没頭した荒俣宏。さらには、二十四時間三百六十五日、魚のことばかり考えているさかなクンに、四十歳まで自分が何者なのか悩み続けたのっぽさん・・・。

山田玲司著 『卑属の才能』より

というように、何か事を成す人々は誰しも「どこにも属せない感覚」によって孤独のようなものを感じて生きてきたという訳です。

なので、何か重い腰をあげなくてはならない時には、同調を破る必要が出てくることもあるのかも知れません。その誰しもが持つ普段は眠った才能と向き合うのは、世間の目には奇異にうつるかもしれないということです。

つまり「なんか嫌だな。。」と感じる時は、実はうまくいっている時なのかも知れません。才能というものはそういうものなのですから。

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