園子温さん的、ロールモデルを徹底的に生きる。
どうも、しゅーぴーです。
今日は昨日に続き園子温さん本のことを書こうとおもいます。(と、昨日の記事をツイッターに上げたところ、園さん本人と思われるツイッターアカウントからいいねももらいました。)今日の内容としては、自分のやりたいことに突き進むためにロールモデルの存在は大切だということです。
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たとえば、あこがれのあの人は20歳のときにこういうことを成し遂げた。逆にあの人が大成したのは50歳のあの作品からだった。そういったロールモデルの年齢相関みたいなものを持つことは目的遂行のモチベーション維持には大切で、かなり励みになるものです。
では、園さんはどんなロールモデルをもっていたのでしょう。四畳半の部屋で、サンフランシスコの路上で、金持ちになること、将来偉大な映画監督になるという妄想を抱きながら、貧乏にあらがってきた園さんの処世とはどういうものだったのでしょうか。
偉大な人間のアーカイブを持つことが重要でした。その保存庫から自分にとってのロールモデルを引き出しながら生きているのです。偉大な人間をモデルにするといっても、それは偉人の言動を信奉することではありません。その人自身を生きる、ことを意味します。
言葉を信奉するのではなく、その人自身を生きること。ここにがポイントですね。その身になって実行することは、簡単にできることじゃない。
僕の持論では、ロールモデルはその都度の自分に合わせて切り替えが可能です。たとえば、20代にシド・ヴィシャスのような夭逝を願っていた人間が30歳を過ぎてしまったらどうしたらいいのか。大丈夫です。そこにはイエス・キリストがいます。しかし40代に突入しても宗教を始められなかったらどうすればいいのか。それでも大丈夫です。そこには40代でデビューしたフランスの映画監督、ロベール・ブレッソンのような人間が待っています。そうした都合のよさで、自分を信じ続ければいいのです。
このように、自分の思う偉大な人物をロールモデルに据えてそのように生きることができると、ちょっとやそっとじゃ折れない推進力が生まれるのです。
思えば僕も10代の頃から自分のロールモデルを追い続けてきました。「偉大な人間は全裸で学校に行くものだ。」「偉大な人間は17歳のときに家出するものだ」と、その偉大さに出遅れないように必死でした。30代から40代にかけて続いていたスランプも、当初追いかけていた偉大な人物たち、たとえば中原中也やランボーといった夭逝の天才に自分が乗り遅れ始めていたからかもしれません。その頃の僕はアルコール中毒になり、近所でケンカばかりしていました。花屋に突然入って売り物の花を全部摘み取っては店から全額損害賠償請求され、毎晩なぜか血だらけで自宅に帰る。アメリカにいた頃は、60歳半ばまで肉体労働をしていた哲学者のエリック・ホッファーをモデルにして持ちこたえていました。
園さんの生き方はなかなか真似できるものではないかも知れません。しかし、これくらい本気で追いかければ、なんだってなれるんだという勇気が沸いてきませんか。その人自身を生きるように必死になれれば。
しかしそんな逆境においても、自分に嘘をつかないように心がけてきました。実のところ、僕が知っている多くの「偉大になりたいけれど、なれない人」は、どこかで自分を騙している人たちでした。
そうですよね。園さんは自分に嘘をついていないでしょう。人がその目標に到達できないのは、結局、自分に嘘をついているからですよね。体のいい理由をつけて辞めるのは、自分に対する嘘ですからね。
という感じで、園さんは非常に自分に正直な方だと思います。そして、なにより実行力がある人です。この本にはそんな力強い園さんの考えがまだまだたくさん書かれています。この本は非常に勇気をくれる一冊です。
ではでは。