たのしい工学

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はじめてのお葬式

   

どうも、しゅーぴー(@syuupii1)です。

世間はGWですね。今年は上手く休暇を取得すると、10連休になるそうな。昨日まで地元に帰って母方の祖母の通夜と告別式に臨んできました。あえてこのことを書こうと思ったのは、祖母への弔いの意識に少し客観的になってみるためです。

人生ではじめての葬儀でした。

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祖母と対面した時は、霊柩車で祖母の棺が運ばれてきて、葬儀場の男性従業員二人組で祭壇に載せられた後でした。ドライアイスの布団のようなものが掛けられ、鼻の穴に綿が詰められた祖母は、目をつぶって優しそうな表情で眠っていました。

 

こう書いている今も祖母の表情を思い出します。死んでいる人の顔をみるのは初めてでしたが、うまく表現できませんが、不思議な感覚でした。目の前にいるのは祖母なんですよね。でも、死んでいるんです。

 

死体には漠然とおそろしいものというイメージがありました。死体のイメージのそれと相反する生前の祖母のイメージが、自分の中で戦っていて、最終的には祖母のイメージが死体のそれに勝ったようで、その死体が祖母である事実は、おそろしいという印象を拭い去ったようでした。それが祖母の遺体と対面したときに感じた不思議な感覚の正体かな、と思いました。

 

告別式を終えると、焼却場まで移動です。祖母の棺は開かれ、祭壇に飾られていた花輪の花を葬儀場の従業員が鋏で切り取り、トレイに集め出しました。遺族から順に、トレイの花をお別れの言葉とともに祖母の棺に手向けました。出棺の時、霊柩車は長めのサイレンを鳴らし、それに合わせて合掌をする。まるでテレビドラマなどでよくみる光景が見事に再現されているようでした。

 

焼却場に到着し、焼却炉に祖母の棺が入れられました。棺には人が入っているのに、それは今から焼かれる訳です。人が焼かれるなんてただごとじゃありません。焼却炉の中に祖母の棺が入れられるその一連の作業が何とも事務的に感じてしまうのは、棺の祖母が死んだ者であり、生きている者とは違うのだということを見せつけられるようで、なんだか切なかったです。炉の扉の向こうには銀色の台があり、その中に祖母の棺は入っていきました。

 

焼却には、1時間ほど掛かりました。その間は控室で遺族参列者でお酒やお茶をのんだりしながら過ごしました。一時間後、炉から銀色の台が引き出されると、白い灰とともに骨が出てきました。同時に髪の毛を焼いた時に感じるような異様な臭気が漂ってきました。目の前にあるのは人の骨なんですね。いつもご飯で食べる魚や鶏肉の骨ではないんです。それがまたにわかには信じ難いものでした。

 

母親と太い骨をお箸でつまんで骨壷に納めました。後で肩の骨だったろうかと話しました。祖母の姿形はなくなりました。でも、死んだ祖母の顔を含めて、姿形ははっきりと覚えています。

 

生きている者と死んでいる者の差は大きなものだと思います。死んでいる人とは話したくても新しいことは話せないですし、姿形と向き合って会うこともできません。もうその人との新しい記憶が作られることもないわけです。

 

母親は仕事も手に付かないと言っています。母の姉がいうには、半年くらいは亡くなった人の事を引きずるということだそうです。わたしの心持ちと母親のそれはまた大きく違うことでしょう。

 

死を受け容れるとはよくいいますが、まさにそのとおりだと思います。それは納得するものでも、超えることでもないのだと、よくわかった気がします。

 

受け容れるにはどうやら時間の経過が必要なようです。半年くらい経ったら、母親と話してみようと思います。また半年後くらいになにか書けたらいいなと思います。

 

ではでは。

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