たのしい工学

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「もの」と「こころ」の時代を生きるということ

   

どうも、しゅーぴーです。

きょうは日曜日ですね。とつぜんですが今と昔ならどちらがしあわせな時代でしょうか。昔とは価値観が違うからわからないというのも正しいのでしょう。そういった価値観の違いは職場の人間関係、とくに親と子供ほどの年齢差くらいの人同士で接する時に、ギャップのように感じることがある思います。

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「こころ」の時代の理屈

高度経済成長以前、いまよりもまだ貧しかったころの日本の人間関係は今とは違うものだということはなんとなく想像できます。お金がないので「もの」を求めることが難しかった時代です。するとどうなるか。お金や「もの」で解決できなければ、自然と人と人とが助け合うわけです。そこには金と「もの」が介さないので、代わりに「こころ」を介するというわけですね。お金じゃなくて「こころ」を使うというのはどういうものか。それは職場の上司からの飲み会の誘いによろこんで参加するようなものに似ていて、今風にいえば、「空気を読む」ということなのでしょう。あえていうと場の倫理とでもいえるでしょうか。その場面、状況に応じた倫理があるということです。

「もの」の時代の理屈

とはいえ、貧しかった時代はそもそもお金がないので「こころ」を使わざるを得ないというのも、本音であると思います。なので、上司の飲み会の誘いを受けるとごはんを食べさせてもらえるという期待をつよく持っていたともいえます。お金がなければ「こころ」を使ってごはんをたべるという感じです。しかし最近はよくニュースなどで、上司の飲み会を断る若者が増えているみたいな話も聞きます。こういうことがニュースになるということがどういうことを言っているかというと、昔は上司の誘いの飲み会を断ることはなかったという前提があるっていうことです。場の倫理が強烈にあった昔的な解釈ともいえます。しかし、今は昔よりは暮らしが豊かになったために「お金」やサービスを利用できる選択肢が増えたとも考えられます。すると、より個人的に行動をしやすいですよね。これは場の倫理に対して個の倫理とでもえるでしょう。

倫理は時代で変わるもの

昔の場の倫理と、今の個の倫理がぶつかるときに、「最近の若いやつは上司の飲みの誘いを簡単に断る」や「行きたくもない飲み会に無理に参加する必要があるのか」ということが聞かれるのだと思います。もちろん、どっちの倫理がただしいとかはありません。倫理は時代や環境で異なるものですから、うまくやっていくにはお互いがお互いを認めなければなりません。場の倫理は「日本的」、個の倫理は「西洋的」ともいえるかもしれません。前者は日本人のわびさびとか感性的なものに大きく関わっていたり、後者は合理的思考にも通ずるものがあります。どちらがよいかではなく、どちらもひつようなものだと思います。

まとめ

もっといえば、場の倫理と個の倫理がうまれるほどに日本は変化してきているということでしょう。最近は給料があがらないということがニュースでさわがしいですが、お金のない時代をしっている人がまだたくさん生きている時代なわけで、お金があることの豊かさはもちろん大切ですが、お金のない時代のゆたかさというものを昔のひとたちには教えてもらいたいものですよね。けっして貧困を正当化するのではなくて、お金がないなりのよさや価値ようなものも教えてもらいたいですよね。だれだってお金はあるに越したことはないことくらいは知っているのですから。

ではでは!

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