たのしい工学

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エスパー魔美のパパに学ぶクリエイターの姿勢

   

どうも、しゅーぴー(@syuupii1)です。

きょうはものづくりに関することを書こうと思います。

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(引用:http://matome.naver.jp/odai/2132265467798621101/2132265917998675603

ネットでみつけたページですが、エスパー魔美という漫画のとある1ページのようです。最近はブロガーやYoutuberなど、ネット環境があれば誰でもクリエイターとして作品を全世界に公開できる世の中になったわけですが、それに伴い、クリエイター個人に対する批評や非難をする人が現れ、それをクリエイター自身が迷惑に思っているという事を公言しているのをネットで見かけたことがあります。

魔美のパパ的には、クリエイターじゃないよという意識でブロガーやYoutuberをやっている方からすれば、批評や非難を受ける事にはどう思うのかはわかりませんが、実際、自分はクリエイターだと公言しながら、批評や非難に対して真剣に怒っている人達もいるわけです。それをみていたら、まるでこの漫画で言っているとおりだったので、藤子・F・不二雄さんの慧眼といいますか、漫画家、クリエイターはすごいなと感じたわけです。

怒っているクリエイターの方達は、実際、「あいつはけなした!ぼくはおこった!それでこの一件はおしまい!!」ってなっているのでしょうかね。もしも、批評や非難をいつまでも引きずっているようなら、そういう人はおそらくクリエイターとしての精神性というか、胆力みたいなものが足りていないのかも知れません。

クリエイターのキャラクターもいろいろあって、煽ることが特徴的なクリエイターも見受けられます。そのキャラクターが炎上マーケティングのためにつくられたものか、それとも素なのかはわかりませんが、そういうキャラクターの人は他人を煽るという性質上、批評や非難を受ける可能性はそういうキャラクターでない人よりも高くなるのではないかなぁと思ったりしてます。

煽るクリエイターが批評や非難を受けて怒っている有様をみかけると、なんだか無駄だなぁと思ってしまうことがあります。というのは、煽るということは、それなりにリスクのあることだと思うからです。もしも、その煽りが、意図的なものではなく、その人の生来の性質に拠るものならばそうは思わないのですが、それが意図した煽りなら、なら煽るなよと言いたくなる気がしなくもない。煽るというのはそういうものだと思うのですが、どうなんでしょうね。

煽るクリエイターの批評や非難に対する憤慨というものは、自分で仕掛けたわなに自分ではまっているように見えてしまって、どうも気持ちが悪いような感じです。「そんなことならクリエイターなんてやらなければいい」ってパパの声が聞こえてきそうです。パパはこの漫画のとおり「いやなら、だれにもみせないことだ。」とも言っているわけですし。

これからの時代はますます個人がネットに作品などを投稿することが盛んになってもおかしくない世の中だと思いますが、まずは自分がそれを作品だと思うのかどうかをはっきりさせる必要があるでしょう。作品だと思うのなら、批評や非難は受けなければやはりそれ以上作品をネットに発表するのは難しいのかもしれません。また、作品だと思わないとしても、見た人から作品だとみなされてしまえば、同じことです。結局はネットに発表した時点で、これはあなたの作品として世に発表されますがよろしいですか、という一種の同意をもとられると考えた方がいいのかもしれません。

誰でもクリエイターになれる時代に必要なのは、批判や非難と戦う精神ではなくて、それを当たり前だとして受け流す精神なのでしょう。そのときは腹をたてても「あいつはけなした!ぼくはおこった!それでこの一件はおしまい!!」というようにすぐに切り替えられる精神性は必要になるのではないかなとおもいました。

と、なに偉そうに書いてんだ!とかいう声が聞こえてきそうですが、こういうブログを書く行為も今の時代的には受け手に作品ととらえられてしまう傾向が強そうな気もしなくもないです。なので、そういう声があったとしても、それは仕方のないことなのでしょう。

ではでは。

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